私たちに必要な「お金」について‥‥時代を振り返る①(7月6日号)

今回からは、私たちに必要な「お金」について触れていこうと思います。

日本人は投資より貯蓄を好む傾向があると、よく言われます。しかし、日本では低金利が長く続いており、預貯金だけでは老後資金は心もとないことは、多くの人がわかっています。

まずは、現在の日本の金融政策に至った経緯を振り返ってみたいと思います。

バブル景気(経済)からの経緯~1980年前半

当時の日本は、280円程度まで米ドル高・円安が進み、その影響を受けて輸出産業が伸び、大幅な貿易黒字国となっていました。
一方アメリカは、自国製品の売上が低迷し、景気悪化が深刻になっていて、「日米貿易摩擦」が生じていました。当時、アメリカ・デトロイトの労働者が日本車をおもむろに壊す映像を見たことがあるという人は、多くいらっしゃると思います。

「プラザ合意」~バブル景気の始まり

1985年、アメリカは貿易赤字による景気悪化を解消するため、ニューヨークのプラザホテルに、G5(アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・日本)を招きました。
目的は、アメリカのドル高不況を改善するためで、その結果、ドル安・円高にシフトし、1年後には1ドル150円台にまで円高が進行しました。

輸出産業は大きな打撃を受け、日本は、円高不況に陥りました。そこで、日本銀行がとった施策が、公定歩合の引き下げで、これが日本のバブル景気の始まりでした。

1987年~1989年頃(バブル景気全盛)

プラザ合意後の円高不況の解消として、日銀は、公定歩合(※)を2.5%に引き下げる施策を取りました。
その結果、融資を受けやすくなった企業が、更に勢いをつけようと、事業拡大や設備投資、更に新たな工場を作るための「土地」を求めたことで、土地の需要が上がり、地価が値上がり始めます。

また、「土地」に投資することで利益が得られることで、個人、企業、銀行等の金融機関までが沸き返り、借りたお金で新しい土地を次々と購入する方法(「土地転がし」と呼ばれました)が大流行。

地価は、絶対に下がらない「土地神話」が、信じられていた時代です。
また、融資を受けそれを株式投資に手を出す人も急増した結果、株式市場がどんどん活発化し、株価も高騰。
1989年12月29日には、日経平均株価の市場最高値3万8957円を記録しました。

(※)公定歩合とは、日本銀行が民間銀行に貸付を行う際に適用される金利のことです。低く設定すれば民間銀行の金利は下がり、高く設定すれば民間銀行の金利は上がります。1994年に金利自由化が完了し、「公定歩合」と「預金金利」との直接的な連動性はなくなり、現在は「公定歩合」という言葉は使われていません。

1990年~1991年(バブル景気終焉期)

本来の価格に全く見合わない価格(バブル)で高騰し続ける地価や株価について、その高騰を抑える為の施策で、バブル経済(※)は終焉を迎えます。

政府・日銀は、1990年3月に金融政策として、土地購入に係る融資額を減らす「総量規制」を行いました。
また、同8月には公定歩合を2.5%から6%に引き上げます。更に、一定規模以上の土地を所有している個人・法人に課す「地価税(1998年以降、見送り)」も新設しました。

その結果、土地や株の売却が一気に進み、地価、株価は大暴落します。資金を借りていた企業の多くが倒産し、加熱した資産価格を高騰を抑えるための施策が、予想を遥かに超えた急激な景気後退、バブル崩壊を招く結果となりました。

(※)主に土地や株式の資産価値が、投資により経済成長を超えるペースで高騰して、実際の経済状況から乖離し、中身がなく膨らんだ泡(バブル)に似ていることから、「バブル景気(経済)」と呼ばれました。

発動される政府の緊急経済対策~不良債権問題

日経平均株価は1989年12月をピークに、一年後には2万3000円代まで暴落しました。(-41%)
日本政府は、実体経済から乖離した経済を立て直そうと「緊急経済対策」を発表します。しかし、それは新規国債を発行して、これを財源に所得税減税と公共事業を行うという、不況時の最もオーソドックスな財政政策でしたので、構造的解決となる効果は得られませんでした。

バブル景気が膨らんだ大きな原因の一つに、銀行や証券会社で横行していた「過剰融資」にあったからです。バブル期には、将来的な地価上昇を見越して、担保とした土地などの不動産は、担保価値以上に金を貸し付けているため、貸付金よりはるかに価値の低い「不良債権」となってしまっていたのです。

つまり、金融機関にとって、融資をした先の多くは、倒産・破綻もしくはその懸念があり、返済能力が残っていなかったからです。

失墜する金融システムの信頼

1995年、住宅ローン専門の貸付業者、住宅金融専門会社(住専)が破綻します。政府は、6850億円の公的資金を注入し、住専問題は社会問題化しました。

この時期は、アメリカがとった対日貿易赤字の縮小策や、対中国優遇の元の切り下げなどの要因で、急激な円高が進んだため、日銀は公定歩合を史上最低の0.5%まで引き下げました。
バブルのきっかけは公定歩合2.5%でしたから、その1/5です。
再びバブルが?と思いきや、巨額の不良債権を抱えダメージを受けていたていた銀行は、カネ余りに浮かれるどころか「貸し渋り」に向かいます。

泣きっ面に蜂⁉︎

1997年、政府はバブル崩壊後の不況下、何回か「緊急経済対策」をやりましたが、効果が見られず借金が積み重なったことから、「財政構造改革法」政策を打ち出します。

橋本龍太郎内閣は、国民負担を承知の上で、まず財政構造の健全化を図りました。それが、

1997年に消費税を5%に引き上げ(1989年3%でスタート)られました。

それに加え、医療費の引き上げ(サラリーマンは1割負担から2割負担、現在は3割負担)、

所得税の特別減税の中止などバブルのツケは、国民にも向けられました。

大手金融機関が連鎖的に経営破綻

1997年11月、「北海道拓殖銀行」が破綻。その一週間後、野村・大和・日興と並ぶ「四大証券会社」の一つと言われた「山一證券」が自主廃業。
更に、1998年には、「長期信用銀行(長銀)」のうち、日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻し、一時的に国有化されました。

現在に繋がる「ゼロ金利政策」

1998年、バブル崩壊後最悪の経済状況となる中で、日銀は大規模な財政政策に舵取りをします。そうです、今日の金融政策につながる「緩和」政策です。
1999年2月、日本銀行は短期金利の指標である無担保コール翌日物金利(※1)を史上最低の0.15 %に誘導することを決定しました。
この時の日銀総裁が「ゼロでも良い」発言をしたことから、「ゼロ金利政策」と呼ばれるようになりました。

更に、政策金利を0%近くまで引き下げても景気回復が進まなかったことから、日銀は2001年3月に、国債の買取りにより資金の流通を増やす「量的緩和」策を初めて導入しました。
しかしアメリカのITバブル(※2)が崩壊したのを受け、2001年頃から日本の景気の伸びは更に鈍化。
さらに、2008年9月、大手投資会社リーマン・ブラザーズが経営破たんしたことで起きた、世界的な経済危機により、日本の景気は再び伸び悩むことになり、バブル崩壊から20年以上にわたり景気が低迷した期間は「失われた20年」と呼ばれます。

(※1)無担保コール翌日物 (むたんぽコールよくじつもの)
金融機関同士が「今日借りて、明日返す」、「今日貸して、明日返してもらう」といったように、1日で満期を迎える超短期の資金調達や資金供給を、借り手が貸し手に対して担保を預けずに行う取引です。
政策金利とは、日銀が金融政策を実行するために誘導目標とする無担保コール翌日物金利です。

(※2)1990年代にアメリカで起きた、ITビジネスの発展による好景気が、2000年に崩壊したこと。日本にもITバブル崩壊の影響は及びました。

おわりに

今回は、ここまでです。
次回は、2010以降「現在につながる金融政策」、弱くなってしまった日本円のことを書かせていただきます。